報道とは何のためにあるのか?

熊本市の慈恵病院で運用が始まった“こうのとりのゆりかご”いわゆる「赤ちゃんポスト」に初めて子どもが預けられたケースが、運用初日、しかも3〜4歳の子どもだったというのは、かなり驚かされたニュースだった。そして考えたのは、この「ポスト」の設置が正しいのかどうかという話ではなく、匿名性の問題だ。
報道によると、預けたのは父親で、しかも子どもは名前や住所も言っているという。正直、これは「子捨て」ではないのかという気もするが、ひょっとすると、どうしても困って誰にも相談できず、やむを得ず子供を預けたケースなのかもしれない。しかし、追い込まれた状況下で、預けざるをえないと考えている親にしてみれば、今回のように多くの報道がなされることによって、もしかすると、預けたくても預けられない状況を作り出してしまうのではないか? 
「慈恵病院にはどのようなケースが発生し、どのような運用をしているのか」ということを世の中に知らしめ議論することも必要なのだろうが、命を救うためのシンボル的な存在が、マスコミの報道によって実質的に利用できないことになってしまえば、「マスコミは何のために存在するのか」ということを考えてしまう。
報道することによる不利益が想定される場合、例えば今回のようなニュースについて、マスコミはどのように報じるべきなのか。傲慢かもしれないが、ある意味では権力ともいうべき、マスコミという立場の難しさを感じた。