実名の記号性

少年法が適用される被告の利益は、どこまで守られるべきか。
光市母子殺害事件という事件は、さまざまな面で議論を起こすことが多い事件だとあらためて思った。

 山口県光市母子殺害事件をめぐり、被告の元少年(28)=差し戻し控訴審で死刑、上告中=の実名を記したルポルタージュの本が出版されることになり、元少年側が広島地裁に出版差し止めを求める仮処分を申し立てたことが6日、分かった。
(中略)
 元少年弁護団によると、申し立ては5日付。元少年は実名掲載を了承していないとしている。本田兆司弁護士は「実名報道少年法の趣旨に反している。裁判が未確定の段階で『なんと言うことをするんだ』という思いだ」と話した。
 一方、増田さんによると、元少年とは拘置所で計25回面会をしたほか、手紙でもやりとりを重ねて取材したという。今年3月に本人に面会した際、本にまとめる際には実名で書くことを伝え、了承を得たとしている。 
時事通信

個人的には、実名での出版が許されるかどうかという論点には、それほど興味がない。この弁護団の主張にも違和感があるが、これに関しては本人の意思を確かめようがなく、正直それほど関心もない。
それよりも一番の疑問は、この本の著者は、なぜ実名で出版しようと思ったのか?ということである。
たとえば彼の名字が「佐藤」とか「田中」とか仮の名字であっても、我々はそれを受け入れるであろうと思う。つまり、たとえ実名であろうと、本人のことを知らない大部分の人間にとっては、本の内容だけが少年の人間性を推し量る材料で、名前というのはあくまでも記号としての意味しか持ち得ないのではないかと思うのだ。実名というのは、この被告のことを知っている人以外にとっては、それほど意味を持たない。
もし、この著者が懲罰的な意味合いで実名報道をするべきと感じたとしても、著者には法に違反してまでそれを書く権利があるのだろうか。
そもそも、この著者は、なにゆえ実名で出版するという方法を選択したのであろうか。私には、一種の功名心のようなものしか感じられず、少々不愉快だ。